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エモい考えをまとめるとこ。

(再掲)きっと何者にもなれない大学生たちの青春群像劇「何者」を観た

はじめに

ちょいと前に別名義でやっていたブログを閉鎖しました。 あとになって過去の記事を見返すと「何言ってんだこいつ」感がすごいので、戒めのために、そのブログでの記事を再投稿します。 こういう感想記事って観た勢いで書いちゃうとすっごい恥ずかしいよね!!

きっと何者にもなれない大学生たち

就職面接の自己PRの1分間はTwitterの140文字より短い

 このようなモノローグで物語は始まる。主人公はさまざまなバックグラウンドを持つ就活生たちだが、「就活」という困難に直面し、結束し、それに立ち向かっていこうとする青春群像劇だ。現代の就職活動事情を事細かく描写しており、現代の若者の苦悩が描かれる。群像劇でありつつも、一人の登場人物にスポットが当てられその周りの交友関係を中心に物語は進んでいく。

 あえてネタバレ承知で言及するけれども、この映画にはある”仕掛け”が施されている。観客はその仕掛けに見事にハマってしまい、終盤からラストにかけてはその"仕掛け"た謎へ言及する、という構成になっている。

 その仕掛けをどのように評価するかは観た人が感じればいいと思うが、最も評価の別れる部分であると思う。はめられたと思う反面、悪趣味だとも思った。それでもこの作品の持つ"悪趣味さ"は不快さがあるわけではなく、ある種の怒りに近い”訴え”のようなメッセージ性を強調させていると言っていい。演出自体にも必然性があり、それでいてうまいことそれを物語の枠組みで表現できているのだ。そのような意味で捉えると、この”悪趣味さ”も含めて「何者」の作風だともいえる。

就職活動の異様さ

 思えば新卒就活というのは異様だ。それまで、学業やサークルや遊びに勤しんできた学生たちが、ある時期になると急に髪を染め直し、スーツに身を包み、なれない面接やエントリーシートの項目を埋めるため肩書を作り、自己PRと言う名の虚勢をはる。全員同じような容姿のスーツに着替え、個性を求められながらも個性を抑える。冒頭、合同説明会でごった返す人々が描写されていく。その光景は一般的な社会生活を営んでいる側からすると、異様さを感じざるをえない。”異様さ”は物語の序盤ではこれでもかという程に強調されている。隔世のされた"就活市場"の中で主人公たちは、悩み、奮闘し、葛藤を繰り返していく。世間に、社会に振り回され、踊らされ、自分が何者かを問い詰め、疲弊していく。その様子をまざまざと見せつけられ、就職活動というものはなんて残酷で無意味なものだろうと感じざるを得ない。

 中盤に以下のようなセリフが入る。(うろ覚え)

エントリーシート(就職活動の時に使う履歴書とは別の企業毎に用意されるアンケートシート)はトランプのダウトみたいなもの。いかに大きな嘘をついてカードを渡すかが大事。

 これこそが現代の就職活動の一端を表現していると言っていい。エントリーシートや1分間の自己PR、ウェブ試験…このような「茶番化」された選考方法で”個”を押し殺し、自分を取り繕い、面接官に好まれるような自己PRを述べたとして、それは果たして本当の自分自身といえるのだろうか。型にはまった質問に対して、予め用意された回答を用意してそれを読み上げる。それは”就活”という舞台で演じる役者そのものに他ならない。舞台の上でセリフを読み上げる演劇だ。そこには「自分」はいない。そうやって作られた虚像の個人は一体「何者」なんだろう。会社に入るために、個を押し殺して舞台に臨む。しかしながら、彼らが社会に出て、労働をするのは自分が作り上げた虚像ではなく、実在の自分である。このミスマッチがなくならない限りは無駄に疲弊していくばかりだ。

 就職活動に対してこのように思っている人はとてつもなく多い。劇中の彼らも、いい大学にも出ているのだろうし、このような就活批判や、斜に構えた言説は当の就活生自身ももちろんわかっているのだ。それこそがこの作品の"仕掛け"だ。そんなのわかっている、だけれども自分の都合を実現するためにはこの方法しかないのだ、と悲痛な叫びが終盤にかけて展開される。本当に痛々しい映画だった。

 それでもあえて言いたい、この"舞台"を作ったのはだれか。若者を無駄に疲弊させ、悩ませているのはだれか。この仕組みを作り上げたものこそ諸悪の根源ではないだろうか。彼らは一体なんの権限があって、一体何様なのだろうか。